昭和51年6月20日 朝の御理解 29分
御理解第81節
「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。
十里を登り切って向こうへ降りたら、それで安心じゃ、気を緩めると
すぐに後へ戻るぞ」
これはどなたのお話かわかりませんけれども、ある偉い先生のおいでられる教会で記念祭が仕えられた、その記念祭が盛大に終らせて頂いて御結界についておられる先生に総代サンが本当に今日はおめでたいことでございましたと、と言うてあの御挨拶お申しあげた時に先生が私は今日から次の記念祭の事を考えておりますと言われたというのです。
私はもう金光様の御信心は、もうこれですんだとは思いませんというあり方というか信心が、また、あのお道の信心はそういう、まあ性質というですかねただ祈願する成就するそしてお礼参りがすんでやれやれすんだというような信心ではないと言う事です、その精神の底にはいわゆるどれだけの事が出来てもこれですんだとは思いませんと言うあり方ですからこれはもう限りがない事だと思うのですね。
十里の坂を登って向こうえ降りたら安心ちゃと言うのは生涯かけて、魂の世界に入ってからでもやはり同じような事がいえるのじゃないのでしょうか、ですから、まあ、大変な信心なんだなと思うたらもう大変な信心なんです、根、ですから有り難い信心棚と分からせて頂かなければ、根、これは何時まで参らん並んじゃ廊下といったような事になります。
ね丁度お道の信心は三度三度のお食事みたいなものだと、もうこれだけ食べたから、もうあとはたべんでよい、もう一辺に食べ込んだから何日間たべんでよいと言うことではな毎日毎日、ですから折角頂くなら三度三度が美味しう楽しう有難く頂かせて頂くとことえを私は暗に教えておられるのではなかろうかと思います。
ひとつの事を願いを立てる、どうでも一月間一生懸命お参りをする、と、心に誓つたね、そして願いが成就した、それでお礼参りをしたと言うようなものではないのですけれども底に色々な難しさがあるようです。
今度、御取次成就信心生活運動が発足致しましてから、同時に夏冬の心行期間と言うものが無くなった夏の修行と言うものがなくなつた、冬の修行と言うものがなくなった、それはどう言うわけかというと、お道の信心は心行期間だけ一生懸命頑張ればよいというのではない言うならば一年三百六十五日が修行がと言う建前からだと言うことでございます。
だからこれは白由にして教会でやっぱりやるとこはやってもよし、だいたい本部の方針としては、いわゆる夏冬だけのものでない、心行というのは一年じゅうだ、いや一生だと今日私が皆さんに聞いていただいておるような事だと思うのです、ところがそこにです人間のやはり弱さと申しますかねやはり記念祭なら記念祭を目指してのめいめい心行致します、なるほど、終わってあ本当におかげ頂いてよかつたおかげ頂いた有り難かったとそこにやはりやれやれがでますそれが人間です。
けれども段々信心を頂いて参っておりますとですいわゆる本部で言われるようなね、ことが本当なのですけれどその本当なことがわかるまでが、は、やっぱり夏の修行もいる、冬の寒修行もいると言う事になるのではないでしょうか、そこに一月なら一月とこう期限が切られておるところに普通は出来ない打からせめて夏の修行だけでもせめて冬の修行だけでもと、いうならば念願を持ちましてからそれに修行に参加させてもらう普通では例えばお参りでけん人でも一年間の間に六十日間だけはお参りができる六十日間だけは日参ができる六十日間だけはじかに御理解を生で頂かれると言う事になるのです、だから合楽あたりはまあだ未熟ですからこれはどうでもいよいよ本気で夏の修行も冬の修業もやはり私はさせて頂こうと思うております。
私今日は意味がよく分かりませんけれども、真理という物は一つのように思うておりましたけれども真理という事は、まあ私もよく分からんけれども、本当な事だということだと思うのです、だからその本当の事だということになりますと、ね、例えばテレビなんかを見せていただいて、あの深夜のテレビなんかを見ておりますと若い子供達には見せられない、そん為に深夜にあっておるんだと言う訳ですけれども、そういう一つのテレビ番組一つにでも、それを例えば昼日中子供の時間なんかにでも深夜にやっているような物を見せたらそれは嘘ですけれども深夜に見せるのは嘘ではない本当だと言う訳です。
例えば小学生が考えておる事と大学生が考えておる事は違います小学生が本当だと思うておる事は大学生ではもう本当ではないのです、実際実生活になら大学を卒業して出てみてそしてなら学技の上で分かったおったと思うておったことが実際問題に取り組ませて頂いて本当な事はここにあったというふに変わってくるだろうと思います。
それは大事する物でも代わって参ります、これはもうね今私の方の孫が二つですかほらもう玩具をとても大事にします。もう感心するくらいに、もうこのくらいな、このごろ籠をこう下げる籠を持っとりますもん、それに遊んだあときれいに入れてしまうです、それくらいにやはり大事なもんなんです、ね、ところがなら、ああ、七つになり十になったらその玩具なんかはもう要らなくなる、そしてもちっと公正な物を欲しがりますね、ですから信心の追求をするという事は私共の心の成長に従ってかぎりなく変わっていくもんだとわたくしは今日は意味がよく分かりませんけれど、そんな風に感じます。
昨日私は御神前で御祈念中に真仲居ということを頂いた、意味が分からんなりにここにひかえるだけ控えて、聞いてもらえなかったけれども今日私は思うのにです、真仲居というのはあれは記号ですね俳句なんかを作る方達が使います言うなら自分の目に入るところと言うのでしょう。
だから信心させて頂いておりますと段々形のことだけでなくて形の裏まで心までわかるようになります神様神様というてただわけわからんなりに拝んでおる神様の心がいわばわかるようになる、いままでおかげと思うておった事もいわば自分の真仲居の中にいわゆる自分の眼窩に見える物だけがおかげと思うておったけれども、それがひろうなってくるいわゆる肉眼を置いて心眼が開けてくるようになりますと、いよいよ持って心の世界と言うか肉眼の世界から心眼の世界に住むと今までおかげでないと思うておった事がおかげであるとわからしてもらいそれこそ歓喜の涙にかわるほどしの事になってくるんです。
ですからそういう風に信心を頂いてまいりますとなるほど自分の心の成長と同時に信心もそれに共のうて段々楽しく嬉しくで毛手くると言うことがいえますですね、だから本当にわかった本当の本当が分かった人に対してはです、例えば夏の修業とか冬の修行というような一月かんとか二月間と決めるものじゃない金光教の信心はもう一生が修行と言われるのだから毎日がそうでなからねばならんから修行は止めるというたんでは、所謂本当の段階が違うのです。
それもピン下からキリマデあるんです、ね、一番言い例が10年前に寒修行でしたか夏の修行でしたか佐田さん方御一家がこの夏の修行だけは一家中で参ろうじゃんのというて相談をなさって一つ期間参られた一つ期間参って段々朝参りなら朝参りのありがたさがわかったいっかせいをそろえるということはこんなにも有り難い事がわかってきて今日まで10年間続いてきておるじゃないかね、それは本当の事がわかってきたからです。
なつのしゅぎょうならなっのじゅぎょうにまいってからほんなこっが分かってから一生参らなんごっどんなるならどんこんされんというて参らんちいうならどんこんいかんけれどもね、本当の事がわかるという事は本当のおかげが頂かれる、本当の助かりが頂けるという事につながるのですから、ね、なら佐田さん達に今です、はあ毎日じゅつないこっでしょうね一家中で参んなさるとてもしゅるしかでしょうねといたってあたらないね、ただ有り難い信心が一家あげて身に付いていくという事が有り難いのです。
成る程成る程朝はよ起きると言うだけでそりゃ修行ですけれどもそのくらいの事ではない有難いものが身に付いてくるからなんです、そんな方てめったにありませんもう合楽でもそういうような生き方をしておる人は佐田さんだけでしょうねそりやもう佐田さん達よりも前から日参を何十年続けておられる方達もおられるけれども寒修業なら寒修行が切っ掛けとなって朝参りをさせてもらうしかも一家お挙げてと言うように切っ掛けを頂かれたやはり佐田さんご一家だけでしょうね、そして現在のおかげなんです。
あれだけのお商売をなさってますから随分色々な所をとうられるわけでしょうけれども先日高橋さんなんかが話しし取られましたが、もうこれだけの、秋永先生でしたでしようか一つも心配にならないね、いうならば今日の御理解で頂きますと向こうえ降りたら安心ぢゃと言う、もう兆が見えてきたわけです。
この信心さえ続けていけばこの安心この喜びと言うものはいよいよ深く広くしかもあの世まだ持っていけこの世にも残しておけると言われるのだからそういうようなものを目指すというわけでもなかろうけれどもそれが何時の間にか身に付いてくる事間違いないという事になりますでしょう。
高橋さんが当時の椛目に御神縁を頂かれたのはもう16,7年もなるでしょうか、ある難儀な問題自分としてはもう大変な苦しい問題その為にお願いに見えてああたが一生懸命御信心すればおかげになりますよと言われるだだ親先生の一言だけ信じたわけです、もう信じなければどうにも苦しいものだった訳です。
だからそれが言うならば心をいくらかでも安らかしてもらえる手がかりに夏たわけです、それから日参が始まりましたそれこそもう降っても照ってもでしたみなさんが御承知の通りですね、そうして1年間参り続けられた、もう誰が見ても聞いてもそげなこっばあんたお願いしてからおかげになるはずがなかじゃんのと秋永先生もそせをいうそりゃ高橋さん枯れ木に花バイ、そげなこっはとてもおかげ頂けるはづがなかちいう問題が問題だからけれどもやっぱり貫かれたそれこそ枯れ木に花が咲いたんですよそこだならこれから一つ期間またお礼参拝をさせていただくと言うて一つ期間のお礼参拝がございました。
不思議なもんですよね、なんか心に一杯お願いせんならん時には一年間参ったって一つも教えが入っていないです、なんぎとかしんぱいがここにありますからね、だから難儀なら難儀一辺棚の上に上げて置いて本気で信心を頂こうという姿勢を作らなければ信心が本当に分かるはずがないです、それこそやれやれ安心ですね、おかげを頂いてただ有り難い、もうお礼参拝そのお礼参拝の一月の間に教えがどんどん入ってきただろうと思うのです。
一月を終わった時にはもう辞められなくなって今日まで続いておられるです17年でしょうかね、しかも福岡からですよあのへんは単車でした、まだ自動車がないじぶんでしたそれこそ降っても照ってもそして今日までそれが続いておるということはですねいうならば合楽のとりこになったと言うとねいかにも皆なさん一人一人をとりこにしょうとおもとるという、とりこんどんなるならどんこんでけんというのじゃなくてね、虜じやなくてね、こちらの方が言わば放すにはなされないほどしの大事なものを言うならば頂かれたということになるのじゃないでしょうか。
そういう意味でですいうならばその真仲居に入ってくる所のおかげだけしか分からなかったものが段々おかげの世界というものが広がって肉眼が消えて心眼に変わり心眼の開けてくるところのおかげを頂いてまいりますと、言わばおかげの世界というものが全然変わってくる。
そしていよいよ、より本当なものより本当ないうならば心行を目指して信心の稽古がなされる成る程教祖様が信心は一生が修行じゃと仰せられたというわけが分かります、来月は、まあいうなら夏の夏期修行が始まりますね、だからその修行中にですすこしでもより本当な事を分からせて頂くとということはそのままお徳を受けると言うことであると同時におかげが本当な物になっていくと言うことなのですから成る程御信者さんは記念祭がすんだやれやれ安心は親先生も大変ご修行頂いてありがとうございました、先生これでご安心ができられましたでしょうとご挨拶をもうしあげられたときに、私は次の記念祭のことをかんがえとると言うような信心が育ってくる。
私は自分の信心というものがですね、もう10年それこそ一日の如しと言う言葉がありますがね、おんなじもの同じ考え方おおなじが思いというものが10年間同じだったらそれはもう進展してない証拠です育ってない証拠です。
思いも変わる考え方も変わる、見る目が違うそこに例えば昨日頂きましたようにです、信心は釘付けではないということになるのです、限りない言うならば信心の進展を願うならば氏子9里半、十里の道を9里半登ったからというて安心してはならんぞとね10里の坂を登って向こうえ降りた、10里を登ったらそれで安心じゃとは仰ってないですね10里を登ってもう安心じゃろうごたるけれども、向こうえ降りたら安心じゃと仰る。
もう限りがないと言う事なんです、御本部で言われる、いうならば夏冬の特別心行夏期心行また寒中行と言うものがです、寒とか夏と言うだけで決められるものではないね、本当言うたらね、何時も三六五日がそうであらなければならないということは一生がそうであらなければならないというならば本当な本当な事を言うておられるわけであります。
ところが合楽の場合はまだ本当の本当は分かっていないのですから、手前の本当をいよいよ行事ながら、そして見る事聞くこと行なう事全てがです本当に変わっていくおかげを頂いて限りないおかげに繋がる信心に進ませていただかなければならないと思います。